北岳に、キタダケソウを求めて

梅雨空の続く今の季節、それでも山へ行く理由のひとつは、今でしか出会えない風景があるからです。
キタダケソウは高山植物の中でも北岳の、しかもほんの一部でしか見られない貴重な花。
その小さな花咲く大きな山岳景観は、まさに今でしか見ることのできない風景です。
その北岳登山のガイドで雨降るトレイルを、3000m峰目指して歩いてきました。
初日は朝から雨でしたが、昼には上がり、なんと翌朝には晴れ間も。
北岳山頂からは雪渓が美しい間ノ岳、農鳥岳、遠く塩見岳などを見ることができるという幸運に恵まれました。

日の出前の北岳肩ノ小屋前。
朝焼けの、白い甲斐駒ケ岳をバックに黄色いテントが絵になります。

北岳山頂の岩の間から顔をのぞかせていたクモマナズナ。
小さな花は可憐ですが、その強さにいつも関心させられます。

そして出会えました!
キタダケソウ。
多くの高山植物と同様に、氷河期からの遺存植物です。
この華奢なイメージの花に、厳しい氷河期の記憶が宿っているのです。
しばらくキタダケソウの写真を撮りながら標高3000mの風に吹かれていると、
アラスカの北極海沿岸でワスレナグサの写真を撮っていた時のことを思い出しました。

アラスカのことを思い出したせいでしょうか。
キタダケソウを見てから北岳への登り返しの途中で、星野道夫さんの『旅をする木』に引用されていた神話学者のジョゼフ・キャンベルの言葉のことが話題になりました。

「私たちには、時間という壁が消えて奇跡が現れる神聖な場所が必要だ。
今朝の新聞に何が載っていたか、友達は誰なのか、だれに借りがあり、だれに貸しがあるのか、
そんなことを一切忘れるような空間、ないしは1日のうちのひとときがなくてはならない。」

山に登る理由として多くの人が山頂からの景色を上げるでしょう。
でも、そういった目に見えるものではなく、
山という空間そのものが持つ神聖性のようなものに私たちの無意識が魅せられていると思うことがよくあります。
もしキャンベルの言葉どおり、私たちに神聖な場所がどうしても必要なのだとすれば、
山という自然もその場所のひとつなのかもしれません。

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