「自然の時間」〜デナリ国立公園


晩秋のデナリ国立公園。
ツンドラの紅葉も終わり、山には雪が降りはじめていた。

その日、僕はひとりでツンドラの原野を歩いていた。
1週間程のバックパッキングの旅を終え、この国立公園で唯一の道路をめざしていた。
道路に出ればバスに乗ることができ、トイレやイス、テーブルなどの設備も、そして人もいるキャンプ場へ行くことができる。
たとえ国立公園内といえども単独でのバックパッキングはいつも緊張する。
そこは、クマのテリトリーでもあるからだ。
「ベアカントリー」とも呼ばれる原野でのキャンプ生活はいつも緊張感に満ちたものだった。
その緊張感からもうすぐ解放される。
そう思うとついつい歩くのも早くなってくる。

重いザックを担いでいる背中が汗ばんできたので、ちょっと休憩することにした。
そこは、背後に高い崖がそびえる谷間だった。
ザックを下ろし、背中をのばす。
空は真っ青な秋晴れだった。
晩秋の冷たい風がすぐに体を冷やしはじめたので、ジャケットを着ようとザックを開けたその時だ。

急にドッドッ、という足音が聞こえた。
顔を上げると、すぐ目の前にドールシープの雌があらわれた。
崖の向こうから走ってきたようだ。
彼女は僕の目の前で立ち止まった。
なぜか僕のことを気にかける様子もなく、後ろを振り返り、自分の走って来た方向を見ている。

僕はザックから引っ張り出しかけていたジャケットのさらに奥に手を突っ込み、彼女を驚かさないように、ゆっくりとカメラを取り出した。
すると、彼女の視線の方向の、崖の陰から子供のドールシープが走ってきた。
そして、その子羊を追って姿を現したのは、大きなオオカミだった。

母羊は子供が自分に追いつくとまた走りはじめた。
子羊は懸命に母親について行く。
あたりの空気が一瞬にしてピーンと張りつめた。
彼らはまったく鳴き声は発しなかった。
獲物を追うオオカミもだ。
ドッドッドッという彼らの足音以外に音はなく、とても静かだった。

親子羊は僕の背後の崖を駆け上り、急峻な岩場で立ち止まった。
ドールシープたちは岩場を自由に行き来する能力で外敵から身を守っているのだ。
オオカミはその岩場に登ることはできず、大回りして崖の上に登り、口惜しそうに上から親子羊を見下ろしていた。
ドールシープの親子はそんなオオカミを見上げている。
僕はあわててカメラを向け、シャッターを押した。
その直後にオオカミは姿を消した。
オオカミの姿が見えなくなっても、ドールシープの母子はその岩場から動こうとしない。

僕はしばらく呆然としていたが、またザックを背負って歩きはじめた。
同じように道路を目指して歩いてはいたが、ついさっきまで頭の中を占めていた快適なキャンプ場のことは忘れていた。
はじてめて見たオオカミのことで頭がいっぱいだった。
そして、野生動物たちの営みを思っていた。
ああやって、静かに、淡々と繰り返されている彼らの生の営みを思っていた。

そこにあるのは僕たち人間が生きている時間とは別の「時間」だ。
僕たち現代人は明日も明後日も、そして来年も生きているという前提のもとに毎日を暮らしている。
しかし、自然の中にあるのはもっと不確実な「時間」なのだ。

もし、あの崖がなければ、ドールシープの子はオオカミに捉えられていただろう。
もしかしたら、あのオオカミはしばらく狩りに成功していなかったのかもしれない。
巣穴に残した子オオカミたちに餌を与えることができず、子供が死んでしまったかもしれない。

彼ら野生動物たちにとっては明日さえも確実に存在する時間ではない。
数分後に死が訪れるかもしれないのだ。

僕はアラスカの原野に入るといつも漠然とした不安につきまとわれる。
どんなに美しい風景を目の前にしてもその不安は消えることはない。
それは、僕が「人間の時間」を離れて、自然の、不確実な時間の中に身を置いたからなのだ。

その自然の時間の存在を意識することは、とても大切なことだと思う。
「未来」という不確実なものを確実なものと仮定してしまうことから来る不幸が、現代社会にはたくさんあるからだ。
だからといって「未来」のためになにもしなくていいということではないけれど、
自然の時間に思いを馳せるということは、人間社会の「常識」でがんじがらめの僕たちをほんの少し解放してくれるように思う。
そして、そこから見えてくるものが、もしかしたら本来の人間らしさなのかもしれない。

あれから10年以上たった。
あのオオカミもドールシープの親子も生きてはいないだろう。

しかし、ドッドッドッという彼らの足音は、今でも僕の脳裏に焼き付いている。

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